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  • 7.9

    7月6日、Instagramでkenichi_asai_officialの投稿に添えられたキャプションは現在の日本の状況を嘆き、警鐘を鳴らした上で選挙に行くことを強く勧めるものだった。ベンジーは最近ファンクラブの会報誌でも述べていたように政治に対し具体的にコミットしようとしていて(それは論壇紙の対談ページを読んでいるかのような真面目さだった)、その姿勢は5日の新宿でも「税金高いよね」というMCに始まったソロ最新曲『Fantasy』でも見られる(「メガソーラー 広大な 山削り 鳥も死ぬ 何やっとんの」)。そして最も俺の気持ちをザワつかせたのはベンジーがコメント欄で、ファンのコメントに対し「俺は参政党に入れる。」と返信していたことだった。

    その政党についてここで書く気は無い。その投稿についたコメントの数々を見て、ゲンナリしたのである。「ベンジーありがとう、私も選挙に行きます。」、「私も参政党に入れます。」、「参政党は危険です。」、「参政党は国民主権を憲法から削除しようとしています。」「考え方は人それぞれだと思います。」とかそんな感じで。

    はっきり言えば、俺は良識ある、あるいはあろうと望む大人は選挙に行くべきだと思うし、その動機は常に社会のためであるべきだと思う。一方で全ての人が選挙に行けば良い社会になるとは到底思えないし、話し合えば良い解が見つかるなどと思うことはできない。社会に出れば、世界の複雑さに耐えることができない人がほとんどだということが分かるし、想像上の敵を作り出し、それらを排除しようとすることでハリボテの正義をでっち上げるような弱い人間があまりに多いと思う。そしてそうならないために俺自身努めているし、生きるということはそれなりに皆大変で、強くあることはとても難しいと思う。

    気に入っている映画に『グリーンブック』(2018)という作品がある。イタリア移民の粗野な男(黒人に対して素朴に差別意識を持っている)がピアニストの黒人男のツアードライバーをすることになり、その旅路で正反対の二人の間に絆が生まれるというありがちな内容なのだけど、その中でとても印象に残っているシーンがある。黒人ピアニストはゲイであることを隠していて、そのことをある事件をきっかけに知ったイタリア男は特に何かを言うでもなく旅を続けようとする。その態度についてピアニストに言及されたイタリア男はたしか次のように答えた。「俺はニューヨークのど真ん中のクラブで長く働いていたんだ。世界が複雑なことくらい知っている。」。そのシーンがとてもいいのだ。どんなに品がなく、教養がなくとも、このことさえ知っていれば良いのだと思う(彼は車の窓からゴミを捨てるし、ラブレターの書き方さえ知らないが、とても自然に妻や家族のことを愛している)。

    話は戻るけれど、今リベラルの人達がこの一連の事柄を見たなら、浅井健一はどう言われるだろうと、俺はつい案じてしまう。とは言えインテリが浅井健一について何かを書くことなどこれまでなかったし、これからも無いのだろうが(「どうでも良いぜそんな事柄」—『SEA SIDE JET CITY』)。政治に関して一市民が問われることは「センス」であると思う。センスとは色んなことを知って、相対的に認識する訓練を経た判断のこととしてここでは使うけれど、浅井健一はセンス以前の人間であり、「真実 無言電話 クリーブランドでとれたカキ」、「ギリシャの写真を見て 綺麗だと思ったり」(—『SWEET DAYS』)とかめちゃナンセンスであり、シュールである。それはセンスを知る前の無邪気な頃の俺たち(「無邪気な顔して眠る子供の夢は 恐ろしい物語 でも決して汚れてはいない」—『綺麗な首飾り』、「ソーダ水の粒のように 楽しそうな日々は流れる かつて人はみな 無邪気な子どもだったよ」—『15才』)が確かに感じたはずの、手触りのある(「咲き乱れている花の中 暖かな風に吹かれて お前がオレの全てだと 手触りで言ってみせるよ」—『2人の旅』)純粋な嬉しさや悲しさをイメージの中で再現する。浅井健一の詩の力はとても素晴らしいと思う。浅井健一はセンスの人ではないし、センスをする必要がない。既に、そしてこれからも浅井健一の音楽は世界を良くしているし、良くしていくのだから。

    世界はいつも複雑だし、そのことを一人の人間が正しく認識することなんか不可能だろう。それでも愛した人や、憎い人や、どうでも良い誰かが階段に脛をぶつけたら俺は痛いと思う。そいつがアスファルトの上で転んだら痛いし、転んでほしくないと心から思う。そう感じるのは複雑な、割り切れない世界が美しい場所であることを歌う人がいたからだと俺は思うし、美しいことはいつもナンセンスの地平にあるのだ(「ぼくには見える 美しいことが どんなに弱くても 美しくなれる」—『美しいこと』)。

  • 5.16

    『のだめカンタービレ』の着想となった一枚の写真。眺めていると涙が出そうになった。当時音大生の野田恵さんは漫画家二ノ宮知子さんのファンで、公式サイトで交流を持った二ノ宮さんのファン達と自宅でオフ会を行ったそうなのだけど、その際に参加した方が荒れた部屋を見て「のだめ、部屋汚すぎ」とか言いながら撮影したものらしい。赤いカーテン、鍵盤カバーや座椅子。それらがレフ板のように中央の小柄の女性に光を集めている。集められた光の先、この部屋で1番白いシャツを着た人はこの世界で1番白く見える。ペダルを踏む左足の指先は楽しげで、床に散らかったさまざまな生活の痕跡と対比してあまりに陽気で健気で美しい。

    もしもハマスホイが採用した画角でこの部屋が撮影されたとしたら、おそらく写真の良さのほとんどは失われてしまうだろう。ハマスホイが描いたのは部屋であり、そこを流れる時間だった。確かに撮影者は「部屋、汚すぎる」と言って撮ったというのだけど、本当のところ、ピアノを弾く野田恵さんを撮りたかったのだということを写真は打ち明けていると思う。

  • 5.4

    自販機の横に置いてあるゴミ箱の上には箱に入りきらなかったペットボトルやアルミ缶が雑然と並べられていた。目の前を腰の曲がった老婆がゆっくりと歩いていく。週末の午後、まだそう暑くならない季節のこの古びた証券街は青空の下にあり、ビルの合間を突き抜ける穏やかな風は老婆をいっとき包んで忘れていく。灰色のブラウスから覗かない右腕の先には、ライトグリーンの薄い綿布が掛けられていて、さっきの風はそれを揺らしたと思う。彼女の右腕には肘から下がついていなかった。

  • 4.6

    合田佐和子とヤマザキマリさん

  • 3.25

    パンダのシートクッションが届いた。

    朝の光のなか
  • 3.13

    一度外に出ると小粒のぬるい雨がシャワーのように降っていた。湿度を多く含んだ外気は夜の光を柔らかくしていて、視界いっぱいに伸びる中央線の線路が真白な蛍光灯の下で照らされていた。

    その日の飲み会で居合わせた初対面の男はいかにも神経質という風で、M字に後退した生え際と黒縁のメガネの中の大きな目が特徴的だった。その店では某有名店で修行した女将が燗を付けてくれるのだけど、それが絶妙な具合で酒飲みにはたまらないのだと聞いていた。「燗の付け方が絶妙」という言葉を前に「大人っぽい」と思い、恥ずかしさを感じる。他のお酒にしても、その味わいを様々な角度で表現し、評価する人たちがいて、俺はそういうことをカッコいいことだと思っていないのだけど、今ではそれは食事の席で必要なコミュニケーションなのだと理解している。それでも俺は、「どうでもいいぜそんな事柄」と思う。

    4時間に渡って酒を飲み続け、美味い肴を存分に楽しんだ人たちはすっかり気の良い酔っ払いになっていて、先に店を後にした神経質なメガネの男を俺は別れ際に強く抱きしめていた。他の人もそうしていたと思う。その後に店を出た女性は、黙ったまま俺のリブニットの胸元の大きく開いたファスナーを上まで閉めて帰って行った。

    帰りの電車では三鷹から新宿まで20分くらいだっただろうか。一緒にいた人たちは楽しい気分で子どもの頃に遊んだ「ドラゴン・クエスト」の話をしていた。呪文とか、攻略法とかそんなことだったと思う。その内容を何一つとして思い出せないし、それにしても声が大きいなとかそんなことを気にしていた気もする。

    あれだけの量のお酒を飲んだのに、翌朝の気分は悪くなかった。チョコレートを少し食べて、家を出た。外は雨上がりの湿気とともに土や草木の匂いを漂わせながら、長かった冬がようやく終わることを告げていた。温かかった頃のことを思い出せないくらいに、長かったと思う。

    銀座の教文館はとても心地の良い場所で、BGMの無い店内に響くのは老いた男性店員の厚みのある声だけで、来るたびにディスプレイが変わるのを見るのが楽しい。三島由紀夫生誕100周年の棚や、映画の公開に合わせたボブ・ディラン特集の棚、書店売り上げランキングの棚の空いたスペースには、トルストイの『イワンのバカ』が置いてあった。

    喫茶店の丸いテーブルの上にはサンドイッチが乗った大きなお皿とブリュードッグの入ったパイントグラスとその空いた缶が並んでいた。サンドイッチのパンにはバターが塗られていて、小さくカットされたそれらを掴むたびに指にはしつこい油分が付着し、簡易的な個包装のおしぼりでは十分に拭い取ることができなかった。そうして、読んでいた文芸誌のざらついたページの端は油で黒くシミになっていった。

    電車の隣に立っていた若い女はネイルをした指でiPhoneのカメラロールを熱心にスクロールしていた。車内は帰路につくサラリーマンに溢れていて、中年の男たちの香りに俺はお好み焼きのことを考えていた。そうして彼女が手繰り寄せた目当ての画像は、手のひらに乗せた亀を収めたものだった。左手の上に亀を乗せ、それを右手に持つiPhoneで撮影したものを、彼女は表情を変えずにただ見つめていた。そうしている間に電車は赤坂見附に止まり、彼女は降りて行った。

  • 3.10

    全国の暴走族のみんな、おはようございます。ブランキーの解散ツアーを密着撮影した映画『VANISHING POINT』のDVDが届きました。俺はその素晴らしい内容に頭を抱えた。それについて書くのは大変なことだからブランキーの曲を少し紹介するね。

    いちご水を入れた 透明なビン
    それを突き抜けた光が
    真っ白な壁に薄いピンクの
    影を映し出し
    君はそっと手を伸ばして
    それに触ろうとしている
    とても自然なことさ

    純粋とか、素直とかって何だったろうとつくづく思うよ。俺たちは何か欲しいものがある時、誰かが既に持っているものを欲しがったり、誰かが欲しがっているものを模倣するように欲望することが多いと思う。一方で心の原初的なイメージが、曖昧な記憶の中にあることを感じる。素晴らしかったことや、心が温かかったこと。色や音、匂いなどの刺激を伴う、言葉で説明できるほどの具体性を持たないそれらを今でも俺は欲しいと思う。俺の命の隣にあって全ての人の関心の外にある、俺だけの欲望があるとすれば、それはいちご水のように純粋なことだと思う。byebye ⭐︎

  • 3.7

    「私が80年代のマンフィールドでアートを学んでいた頃、初めてThe Cult(ちょうどDeath Cultに改名した頃)に出会いました。正確には私が見つけたわけではなく、当時付き合い始めたばかりの彼女、ジェーンが熱心なファンで、彼らのことを私に教えてくれたんです。それ以来、私はすっかり彼らに夢中になり、何度かライブにも行きましたが、彼らのコンサートは本当に素晴らしいものでした。イギリスのロック文化の中ではずっと過小評価されているバンドだと思います。

    残念なことに、ジェーンは90年代に交通事故で亡くなってしまいました。当時私たちはすでに別れていたのですが、その出来事は私にとって非常に衝撃的でした。彼女は本当に素晴らしい女の子だったし、これらの昔の曲を聴くたびに彼女のことを思い出します。そして彼女がもっと長く生きて、これらの古いビデオを見ながら、孫たちに『私はこの場にいたのよ』と自慢気に語る姿を想像してしまいます。ジェーン・オーウェン、どうか安らかに眠っていてほしい。愛を込めて。」

    @andrewwatkinson1548

    YouTubeで見つけたコメントをchatgptにて翻訳後、加筆修正

  • 3.3

    春風の匂いに懐かしい気持ちになり、そんな時にたまたま見たアンドリュー・ワイエスの絵はとても綺麗だと思った。日経新聞の「何でもランキング」の紙面で愛の言葉がテーマだった。一位がサンテグの「向き合うことが必ずしも愛の形ではなく、同じ方向を見ることが愛である」とかそんなような言葉で、それを見て妙に納得したりした。

    Andrew Wyeth “Daydream”

    外へ出ると雨が降っていて、傘を差して歩いている途中、雨が雪へ変わった。北国出身だからと言って寒さに強いわけもなく、「寒い寒い」と言えば、「北海道出身なのに?」とか、野暮なこと言いやがるもんだで、めちゃめちゃ殴って、めちゃめちゃ謝って、無かったことにしてやった。

  • 2.24

    李朝白磁壺
    桃山の織部手付鉢
    前原冬樹さんのミクストメディア
    常滑三筋壺
    古信楽大壺

    KUDAN HOUSEのアートフェアは今日まで。古信楽の壺、今まで見てきた信楽の中で最も美しいと思った。茶人がこの大きさを好まないから市場価値は年々下がって550と言っていたが(反対に小振りな蹲は価値が上がっているらしい)、たっけーと思った。美的に、あまりにおおらかだと思う。欠けた首さえ全体的な調和の中にあり、黙してそこに佇む。神はいないか、それでも彼がこの壺を創ったのかと思うほどである。