9/17

重ねる年に感慨を覚えたりはしない方だと思う。というよりは、続いていくことと、終わってしまうことへの感傷を義務のごとく遠ざけているのかもしれない。今日、頭の上から照り付ける正午の太陽の下で身体全体を優しく撫でる風を感じ、信号待ちの少しの間目を瞑ってみた。よく晴れたビーチで海風を感じながら、肌を焼く太陽に身を委ねると心が落ち着く。同じ気持ちで穏やかだった。今年の夏は海にも行かなかった。

いつも通る道には5日くらい前から一匹のネズミが死んでいる。初めて見た時にはもっと生々しく確かにネズミの形をしていたのだが、だんだんと姿を変え今日には生きていた面影さえ微かに、道端に落ちている雨に濡れたスターバックスのカップスリーブのように平たく忘れられていた。

すれ違いの女性は中年で、眉間に厳しい皺を作りながら先を急いでいるようだった。素材の良さそうな花柄のワンピースと明るい色のハイヒールは忙しなく歩みを進め、かつてネズミであった物体を踏み付け、なおどこかへ急ぐ。九相図とはこれかと思うのだけど、絵画ほどにドラマチックではなく、乾燥した死体は思うより乾燥したままそこに在る。

先週行ったWHAT MUSEUMでの諏訪敦の展示、「きみはうつくしい」のことが頭にあったのだろうか。母の死に際し、静物画も肖像画も描けなくなった画家が肖像画を回復させる過程として、自らコラージュして制作した人体をモデルに展開した作品群が展示のメインであった。それもまた作家が述べるように九相図を意識したインスタレーションであり、しかしそれは生物が朽ちていく様ではなく、生から程遠い材質(骨格標本、外壁充填材等)から生を構築していく試みだったと思う。

もっともオレの心を打ったのは故人を描く「喪失」シリーズの、ある10代の男子を描いた作品だった。この作品は故人家族からの依頼により制作されたもので、家族への入念なインタビューがあったのだろう。あまりに美しい振り向き様の青年の姿、見ている者が見つめられていると感じるほどのリアリティは、家族にとって堪らなく悲しく、優しいと想う。失われた肖像を美しく描くのは常に他人なのかもしれないし、それほど死は近しい者にとって硬いクルミのように不可解な手触りを持っているのだろう。

コメント

コメントを残す