7月6日、Instagramでkenichi_asai_officialの投稿に添えられたキャプションは現在の日本の状況を嘆き、警鐘を鳴らした上で選挙に行くことを強く勧めるものだった。ベンジーは最近ファンクラブの会報誌でも述べていたように政治に対し具体的にコミットしようとしていて(それは論壇紙の対談ページを読んでいるかのような真面目さだった)、その姿勢は5日の新宿でも「税金高いよね」というMCに始まったソロ最新曲『Fantasy』でも見られる(「メガソーラー 広大な 山削り 鳥も死ぬ 何やっとんの」)。そして最も俺の気持ちをザワつかせたのはベンジーがコメント欄で、ファンのコメントに対し「俺は参政党に入れる。」と返信していたことだった。
その政党についてここで書く気は無い。その投稿についたコメントの数々を見て、ゲンナリしたのである。「ベンジーありがとう、私も選挙に行きます。」、「私も参政党に入れます。」、「参政党は危険です。」、「参政党は国民主権を憲法から削除しようとしています。」「考え方は人それぞれだと思います。」とかそんな感じで。
はっきり言えば、俺は良識ある、あるいはあろうと望む大人は選挙に行くべきだと思うし、その動機は常に社会のためであるべきだと思う。一方で全ての人が選挙に行けば良い社会になるとは到底思えないし、話し合えば良い解が見つかるなどと思うことはできない。社会に出れば、世界の複雑さに耐えることができない人がほとんどだということが分かるし、想像上の敵を作り出し、それらを排除しようとすることでハリボテの正義をでっち上げるような弱い人間があまりに多いと思う。そしてそうならないために俺自身努めているし、生きるということはそれなりに皆大変で、強くあることはとても難しいと思う。
気に入っている映画に『グリーンブック』(2018)という作品がある。イタリア移民の粗野な男(黒人に対して素朴に差別意識を持っている)がピアニストの黒人男のツアードライバーをすることになり、その旅路で正反対の二人の間に絆が生まれるというありがちな内容なのだけど、その中でとても印象に残っているシーンがある。黒人ピアニストはゲイであることを隠していて、そのことをある事件をきっかけに知ったイタリア男は特に何かを言うでもなく旅を続けようとする。その態度についてピアニストに言及されたイタリア男はたしか次のように答えた。「俺はニューヨークのど真ん中のクラブで長く働いていたんだ。世界が複雑なことくらい知っている。」。そのシーンがとてもいいのだ。どんなに品がなく、教養がなくとも、このことさえ知っていれば良いのだと思う(彼は車の窓からゴミを捨てるし、ラブレターの書き方さえ知らないが、とても自然に妻や家族のことを愛している)。
話は戻るけれど、今リベラルの人達がこの一連の事柄を見たなら、浅井健一はどう言われるだろうと、俺はつい案じてしまう。とは言えインテリが浅井健一について何かを書くことなどこれまでなかったし、これからも無いのだろうが(「どうでも良いぜそんな事柄」—『SEA SIDE JET CITY』)。政治に関して一市民が問われることは「センス」であると思う。センスとは色んなことを知って、相対的に認識する訓練を経た判断のこととしてここでは使うけれど、浅井健一はセンス以前の人間であり、「真実 無言電話 クリーブランドでとれたカキ」、「ギリシャの写真を見て 綺麗だと思ったり」(—『SWEET DAYS』)とかめちゃナンセンスであり、シュールである。それはセンスを知る前の無邪気な頃の俺たち(「無邪気な顔して眠る子供の夢は 恐ろしい物語 でも決して汚れてはいない」—『綺麗な首飾り』、「ソーダ水の粒のように 楽しそうな日々は流れる かつて人はみな 無邪気な子どもだったよ」—『15才』)が確かに感じたはずの、手触りのある(「咲き乱れている花の中 暖かな風に吹かれて お前がオレの全てだと 手触りで言ってみせるよ」—『2人の旅』)純粋な嬉しさや悲しさをイメージの中で再現する。浅井健一の詩の力はとても素晴らしいと思う。浅井健一はセンスの人ではないし、センスをする必要がない。既に、そしてこれからも浅井健一の音楽は世界を良くしているし、良くしていくのだから。
世界はいつも複雑だし、そのことを一人の人間が正しく認識することなんか不可能だろう。それでも愛した人や、憎い人や、どうでも良い誰かが階段に脛をぶつけたら俺は痛いと思う。そいつがアスファルトの上で転んだら痛いし、転んでほしくないと心から思う。そう感じるのは複雑な、割り切れない世界が美しい場所であることを歌う人がいたからだと俺は思うし、美しいことはいつもナンセンスの地平にあるのだ(「ぼくには見える 美しいことが どんなに弱くても 美しくなれる」—『美しいこと』)。

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