せっかくの休日だというのに外へ出るのはいつも億劫で、日当たりの悪い賃貸物件の自室に日が差すのは一日のうち午前11時頃の15分程度なのだが、目を覚ますとまさにその時だった。ということは目を覚まし、少しすると部屋は暗がりを取り戻し出不精の自分の心にさらに味方する。とはいえ外の世界がどれほどか知るには、ドアを開け、歩き出さなくてはならない(I want you, love you Pepin♪)。
最近はとにかく美術館へ通うことにしている。いろいろな作品を知ることが必要で、記憶する固有名詞の束を厚くしなければならない。それに美しいものに触れることは、細やかに行き渡る現実の重みを忘れさせる。それは私が生活を忘れたいと希望するしないに関わらず、ただ忘れるということだと思うのだけど、美学にはそんなことを言い表すために「美的距離」という言葉がある。ある新書には、心の余裕があって初めて美を楽しむことができるということ、また心に余裕を生むために美が用いられるといったことが初学者向けに説明されていたはずだ。ともかく美は現実との間に距離をつくる。
ベッドの中でTOHOシネマズ日本橋のデヴィッド・テナントとクシュ・ジャンボの『マクベス』15時40分のチケットを購入し、昨夜脱ぎ捨てられた洋服をもう一度身に着け外へ出た。地下鉄を副都心線の明治神宮前で降り、太田記念美術館へと向かっている間、俺は様々な人間の香水が混じり合った匂いの中にいた。
国周の展示だった。まとまった数の浮世絵を見るのはおそらく初めてで、繊細な筆や優れた色彩感覚に感心したのだが、同時にそれらは新しい美術だとも感じたと思う。田中一光が自伝の中で、浮世絵と戦後のグラフィックデザインを接続させていたことを思いながら役者絵を眺めると、コンピュータ的なデザインの精緻さとグラデーションの処理に、田中の言うことが分かるような気がした。
外へ出ると風が強くて、ビールが飲みたかった。TOHOシネマズ日本橋へ行くには銀座線表参道駅まで歩かなくてはならなかった。表参道を行く間、過去のことを思い出していた。人に辛く当たったことや、人を悲しませたこと、それに15歳で家出した彼女のことを。渋谷はとても寒くて、こんな日は祖母が編んでくれたセーターを着ておくべきだったのに、鼠色のトレンチコートの下は薄手のカットソーだった。
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